作・飛田流
1
安岡大吾は、今日ほど自らの巨根を恨んだことはない。
――十一月七日深夜一時過ぎ。
上野駅から、徒歩十五分ほどの場所に立つそのビルは、目立つ看板もなく一見普通のマンションのように見える。
一階がすべて駐車場で、階段を上った二階に玄関。だが、二階に進む途中に「会員制」と大きく書かれたプレートが、一般人の出入りを拒むように貼られていた。
控えめな店舗照明が営業中であることをかろうじて知らせてはいるが、アクセスに便利とは言い難い立地と、ことさらに目立つことを避けている印象すら与えかねない地味な外観に、いくばくかの違和感を覚えながらこの施設の前を通る人も多いだろう。
近くの国道と首都高から届く排気ガスの臭いがうっすらと漂う中、眠りに就いた建造物の間で、そのビルはひっそりと佇み――。
いや、そこへ国道沿いの歩道を曲がり、一人の男がビルに続く道へと入ってきた。男は二メートル近い長身で、ほの暗い街灯でも、がっしりとした筋肉に包まれた巨躯であることがわかる。大きな肩を怒らせ、多少ガニ股気味に太い両脚でのしのしとビルに向かう姿は、人間というより二本足で歩く猛獣に近い。
かつ、その足取りは明らかに奇妙だった。数歩ビルに近付いたかと思うと、一度立ち止まり、濃い無精ひげに覆われ角張った顎に手をやって、しばらく考える素振りを見せる。そののちに、ビルに背を向け、来た道を数歩戻り掛けるもののまた立ち止まり、巨体をぐるりと半回転させ、再びビルへと歩を進めていく。
氷上を進むようなそろそろとした足取りで、徐々にビルの手前まで歩み寄った男の全身を、駐車場の照明が照らし出す。男は、短く刈り込んではいるもののところどころぼさつきが目立つ髪型で、墨をたっぷりと含ませた大筆を一気に引いたような太い眉の下には、幅広の鼻梁があぐらをかいただんごっ鼻が鎮座している。
体格も、大きな四角い顔かたちも、何もかもがいかついその男は、ネイビーブルーと白の薄汚れたスタジアムジャンパーを着込み、元は藍色であっただろう、すっかり淡い空色に褪めたくたくたのジーンズを穿いていた。三十歳を基点として、それより若くも年かさにも見える風貌であるが、長身に見合うはち切れんばかりの筋肉が、彼の見た目年齢をさらにあいまいにしていた。ただ、腹周りの緩やかに湾曲したラインは中年の兆しを感じさせる。
威圧を感じさせる大きな目で男は二階の玄関を睨みつけ、まず踵を半分踏みつぶしたスニーカーを片足、階段の上に乗せる。
――が、早くも一段目にして男の動きは止まった。
太眉をひそめつつ、一分ほど動きを停止したのち、また路上に戻る。そのまま、この場を後にするのかと思いきや、
「う……む、ぅ」
だみのかかった溜息を洩らすと、ビルに向き直り、またもや階段へと向かう。
しかし、足を階段に一歩乗せたと同時に、ふたたび男は立ち止まる。
数十回、延々とそれを繰り返していた男は、
「…………はぁ……」
道路の真ん中で直立したまま、広い肩をがっくりと落とした。うつむけた視線の先には自身の股間がある。
「うぅぅぅぅぅぅぅ……」
巨漢は唐突に猛獣のごときうなり声を出すと、
「……ぐっ」
両手でむんずとそれをつかみ上げた。
大きな手でも握りきれないほどの容積を持つ肉塊が、節くれだった毛深い指の隙間から存在を主張している。
「こいつのせいで……っ」
巨漢――安岡大吾の、無精ひげに覆われた口から、巨大な陽物を呪う言葉が漏れ出た。
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2
ひどく息苦しい空間だった。若くはない男たちが発するにおいが複数になると、とたんに鼻腔を凶暴に襲い、軽い頭痛を引き起こす。
背広姿の男たち十数人が乗った、定員ぎりぎりのクラウン証券社員用エレベーター。その奥で、地味な紺色のスーツの上に、丈が短めのベージュのトレンチコートを着た青年、田上勇一が、ビジネスバッグを胸元に抱え、ひたすら身を縮み込ませていた。
色白の肌に、やや細めの整った眉、黒目がちの澄んだ瞳、両の口角が上がり気味の唇。それらがほぼ完璧な美的バランスで配置された顔はどこか中性的で、かつスレンダーな体つきの彼を、ファッションモデルだと紹介されても大抵の人が信じるだろう。しかし、この状況で勇一に目を向ける者は一人もいない。
一階から上昇したエレベーターは、各階に停止するたび、さらに乗客を飲み込んでいく。社員たちの様々な薄さの後頭部から目を逸らせない体勢で、勇一の体はさらに奥の隅に追いやられていった。
混雑はほとんど解消されることなく、エレベーターは七階に到着した。
勇一が所属するファイナンス・ディーリング部が、このフロアにある。だが、ドア近くに乗っていた社員数名は降りたものの、残りの人々が勇一の行く手をふさぐように背を向けており、一センチも前に進めない。
「あの……っ、すみません、降りますっ」
それを言ってしまってから、気恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じる。
やっと勇一の存在に気付き、ドアまでの隙間を作ってくれた男たちの間を、遠慮深いとも気弱とも取れる口調で、
「すみませんっ、すみませんっ」
とかいくぐり、勇一はようやく息苦しい箱から抜け出した。ほっと息をつく間もなく振り返り、「ありがとうございました」と深々と頭を下げる。扉が閉まる気配を、折り曲げた背中で感じてから、
「……ふう」
上半身を起こし、小さくため息をつく。
(――どうして来てしまったんだろう)
今日は、会社を休んでずっとアパートの部屋にいるつもりだったのに。
「……あ」
ぼんやりとエレベーターの前で立ちつくしている場合ではない。左手に提げていたバッグからスマートフォンを取り出して、現在時刻を確認する。
――十一月七日、午前九時十三分。
「うわ……」
軽く血の気が引いたのと、額に右手を当てるのと、足が前に出たのとが同時だった。
大半の社員の出社ピークである九時を過ぎていることもあってか、薄気味悪くなるほど静かな通路を、心持ち速足で歩く。入社以来、常に七時台、遅くとも八時台に出社を続けていた勇一の、初めての朝九時台の出勤だった。
「ふ……ぁ」
昨晩からほとんど寝つけず、未明にどうにか眠りに引きずり込まれたものの、わずかなまどろみの後にベッドで目を覚ました時には、カーテンの隙間から洩れる朝日が、いやに明るく、アパートの部屋を照らし出していた。
「……え」
戦慄が喉元まで込み上げる。もし現在の時刻が九時過ぎだとすれば、着替えの時間も考え合わせると、フレックスタイムの最終出社時間である十時にはまず間に合わない。
木目が雨漏りの跡のように茶色く変色した天井を見上げ、
「もう今日は会社休もうかな……」
と、宙に浮いた視線を、右側の壁に向ける。
壁掛け時計の針が目に入った。
――午前八時四十九分。
直後、ベッドから跳ね起き、急いで身支度した勇一は朝食も取らずにアパートを飛び出した。
久々に乗った満員電車の洗礼で、会社に辿り着く前から軽い頭痛と目まいと嘔吐感に襲われつつも、本我生駅から続く通勤路を走り抜け、勇一は今、ここにいる。
もしかしたらまだ夢の中にいるのかもしれない、と思いたいところだが、通路を歩く視覚も、靴音が鳴る聴覚も、夢であるとしたらあまりにリアルすぎた。
(この先に……)
「彼」がいる。そう考えただけで足は徐々に重くなり、オフィスの数メートル手前、総務課の前で歩みは完全に止まった。
昨晩、いるはずのない場所で、「彼」を見てしまった衝撃。そして、あろうことかそれを火種にして、深夜自分の部屋で情欲に身を任せてしまった愚かしい記憶が鮮明に蘇る。
心の整理が完全についたわけではない。しかし、社会人七年目として、いつまでもこの場所に立ち止まっているわけにはいかない。
(……もう、行かなくちゃ)
少しでも気持ちが鎮まるよう軽く息を吐いて、勇一は一歩足を踏み出した。