(体験版)

作・飛田流  





 それは、九月初めのことだった。



「田上ちゃん、ちょっとちょっと」

 北平きたひら駅のトイレから出ようとした男の前に、中から追ってきた巨躯の男が突然立ちはだかった。

 日曜の朝八時という時間帯もあってか、他にトイレの利用者の姿はない。

 行く手をふさがれた、赤いパーカーを着た男はきょとんとした表情は見せたものの、大きな体を縮こませ、無精ひげに覆われた顔を赤らめている男を前にして、その表情に怯えの色は見せなかった。

「どうしたんですか」

「いや、あの……ちょっと忘れ物……な」

 思いつめた表情でそう口にした巨漢は、パーカーの男の背中にいきなり手を回すと、自分の体に向けて太い腕にぐっと力を入れた。

「……あっ」

 抱き寄せられたパーカーの男のすらりとした体がよろけ、巨漢の分厚い胸板を覆うジャンパーに色白の細面が密着する。

 身長が一九〇センチはある巨漢は、熱っぽい瞳で、パーカーの男を十五センチほど上から見降ろしていた。

「……安岡さん?」

 パーカーの男からの問いに、巨漢からの返答はない。

 代わりに、巨漢の顔は見る見るパーカーの男の顔に近づき、そして――。

「……!!」

 無言のまま、唇を奪った。

「う……んん……っ」

 巨漢の厚い唇を強く押し当てられ、パーカーの男の唇から吐息が漏れる。

「うむぅぅ……んぐ、ぅっ」

 巨漢もうめき声のような吐息を漏らし、さらにパーカーの男の股間をズボンの上からごつい右手で二、三度ぐにぐにと柔らかく揉んだ。

「……っ」

 やっと力が緩められたと同時に、パーカーの男は巨漢から逃げるように後ろに一歩退いた。

 それを見た巨漢の顔にこわばった笑みが浮かぶ。

「ま……また、遊びに来てもいいか。今度は『俺が目を覚ましてるときに』」

「え……あの……」

「じゃ、またクラブでな」

 返事も聞かぬまま、巨漢はそそくさとホームに向かって逃げるように、小走りで去っていった。

 一人残されたパーカーの男は、遠ざかる大きな背中をぼんやりと見送っていた。



 ――その、二か月後。

 十月二十九日、本我生もとごう駅西口。

 東京都心に程近いこの街は、全国に百数十の支店を持つクラウン証券本社を筆頭に、著名な企業が集まるビジネス街として知られている。

 西口の駅前広場にそびえ立つ時計塔が十七時の針を指し、どこか郷愁を誘うメロディーの、チャペルに似た鐘が鳴った。良く熟した柿の色に似た晩秋の夕映えが、辺りのビルを茜色に照らし始める。

 ファッション・グルメ・スポーツクラブなど多数のテナントを有した大型ビルも隣接するこの駅の西口は人通りも多く、華やかな雰囲気が漂っていた。

 しかし、駅構内の連絡通路を通り、東口のターミナルに出ると、安酒と車の排気ガスを混ぜ合わせたような独特のにおいが強くなる。

 駅近辺では回転寿司・コンビニ・立ち食いそばなどの地味な店構えが続くが、二車線の車道を渡り、その奥へと進むと、西口とは真逆の、満艦飾のネオンに彩られた光景が突如広がる。

「どうっすか、社長、本日初入店のピッチピチのニューフェイス! いかがっすか! ピッチピチ! ピッチピチ!!」

 ラブホテルや風俗店が多数立ち並ぶこの界隈では、空が赤みを帯び始めたころから、癖のあるイントネーションで、客引きの男たちが通行人の呼び込みを始めていた。

「どうっすか、そこの社長っ」

 タキシードに蝶ネクタイを締めた店員が、路傍を歩く何人目かの『社長』に、軽薄な作り笑顔を向けたその瞬間。

「……ぃ……ぃぃ……」

 途端に目を泳がせた店員は、即座に顔をそむけ、何事もなかったかのようにまた呼び込みを始めた。

 彼が声を掛けようとしたのは、酒瓶のケースを四箱積み上げた台車を押しながら、のしのしと歩く大男だった。身長一九〇センチはあろうかという、三十代前半ほどの男の太い眉の下にある目は鋭く、不精ひげに覆われた唇は真一文字に結ばれ、ネイビーブルーと白のジャンパーとジーンズの下に隠れた巨体は、がっしりとした筋肉で盛り上がっている。どっしりと脂肪が乗った太い腰には、「安岡酒店」と白で染め抜いた藍色の前掛けが締められていた。

 渋面で肩を怒らせて歩くこの酒屋の男に、他の店の呼び込みの男たちも触らぬ神に祟りなし、とばかりに誰一人として声を掛けようとはしない。行き交う人々もまた、酒屋の男からさりげなく、かつ充分な距離を保ってすれ違った。しかし、本人はそれを気にすることもなく、あるいは気付きもしないのか、猥雑な喧騒には似つかわしくない、どこか修行僧のような険しい形相で台車を押し、歩を進める。

 そして、酒屋の男の足は、「寄り道横丁」と書かれた、錆びと劣化の目立つ看板の下で一度立ち止まると、台車とともに直角に曲がり、飲み屋やスナックが寄り集まる長屋風のひっそりとした小路へと踏み入った。

 その一番奥にある店の玄関には、色あせたビールメーカーの看板の隣に、「てっちゃん」と筆文字で書かれた古ぼけた赤ちょうちんが吊るされている。「準備中」の札が掛かっている格子戸の向こうには明かりが点き、ガラス越しに動く人影がぼんやりと見えた。

「……むぅ」

 酒屋の男は、仏頂面を崩さずに大きな鼻の穴を広げて深呼吸をすると、古びて黒ずんだ木の引き戸に武骨な手を掛けた。

「うぃーっす、ご注文の酒お届けに上がりましたー」

 野太い声を上げて、男が戸をガラリと開けると、まずは店内に充満していた、香ばしい焼き鳥のにおいが出迎えた。手書きのメニュー短冊や、ジョッキを片手ににっこりと笑う水着姿のグラビアアイドルの色褪せたポスターなどが、すすで変色した壁に雑然と貼られた店内は、学生街の定食屋のような昭和のにおいを濃く残している。

 背は低めながらもがっしりとした体格の作務衣姿の男が、厨房から細く鋭い目を来訪者に向ける。切り分けた鶏肉を串に刺していた手を止め、はげ頭にねじり鉢巻きのごとく白いタオルを巻いた男は一転、ひげ剃り跡が青々と残るいかつい顔に笑みを浮かべた。

「よう、大ちゃん」

 親しげに酒屋の男をそう呼んだ男の名は、岩田徹治いわたてつじ。この店のあるじにして当年四十九歳、独身である。かつては結婚歴があったらしいが、そのあたりのくだりは、本人の口が重いせいもあり、十五年ほど付き合いのある「大ちゃん」こと、巨漢の酒屋・安岡大吾やすおかだいごにも知らされてはいない。

「……じゃ、これな」

 大吾は、笑顔の岩田ににこりとも笑みを返すわけでもなく、酒のケースを台車からのろのろと持ち上げ、床に下ろす。

 まるで覇気がないその鈍重な立ち振る舞いに、岩田の顔が軽く曇る。

「どうしたどうした、いくらこのご時世だからって、客の前で景気の悪ぃ顔見せてんじゃねえよ。こっちまで不景気が移っちまわぁ」

 しかし、岩田の叱咤にも、何かを考え込んでいるような大吾の表情が変わることはない。

 顔をしかめた岩田は下ごしらえの手を止めて、水道でざっと洗った手を前掛けで拭きながら、厨房からのそりと姿を現した。

「最近ちょっとおかしいぜ、大ちゃんよ。こないだから注文した酒忘れて俺んとこ来るわ、釣り銭はちょくちょく間ちげぇるわ、一体全体どうしちまったんだい」

「……おう」

 目を開けながら寝ているかのような大吾の生返事に、軽く舌打ちをした岩田は、かかとが擦り減ったサンダルを引きずりながら、すっと大吾の後ろに回った。

 その間にも、大吾は何か考え事をしているかのようにぼんやりと立ちつくしている。そこへ、

「オラッ、しっかりせいっ!」

 岩田は遠慮会釈なく、大吾の尻を一発叩いた。肉付きのいいむっちりとした尻は、バンと小気味いい音を立てる。

「……っ!!」

 しかし、岩田に背を向けた大吾の口から、それ以上の声は出ない。

「ん?」

 不審げな顔で岩田がひょいと大吾の顔を覗き込むと、感情を無理に抑え込んでいるかのように、大吾の太い眉は八の字に、口元はへの字に曲げられていた。大きなだんごっ鼻の両穴はひくひくと動き、赤らんだ四角いひげ面には汗がじっとりと滲んでいる。

「なんだ、体の具合でも悪いのかい」

「……い、いや」

 と大吾は否定するものの、その息は荒く、広くがっしりとした肩は大きく上下していた。

「って、おい……」

 岩田が心配そうに、大吾の大きな尻をまた軽くつかむと、

「んぁぁ……ぁぁぁ……っ!」

 大吾はまるで感電でもしたかのように、巨躯をぶるぶると震わせた。

「……お?」

 一瞬ぽかんとした岩田の顔に直後、にたりと悪童のような笑みが浮かぶ。

「なんだ大ちゃん、ここがそんなに感じんのか」

 言うが早いか岩田の毛深くごつい手が、大吾のむっちりとした尻たぶをしつこく撫で回し始めた。

「そ、そこは、ぁぁぁぁぁぁぁんんんんんっ!! やめ、やめぃ……くぁぁぁぁっ!!」

 しかし、肉厚の尻の上でうごめく岩田の手に抵抗もせず、大吾は発情期の雄熊のような野太いあえぎ声を上げ、巨体を激しくけいれんさせるだけだ。

「ここか、ほれ、ここか」

 大吾の過剰なまでの反応に、さらに調子に乗ったのか、薄笑いを浮かべた岩田の節くれだった指は大吾の尻の上で踊り、そのまま分厚い双丘の割れ目へと向かっていった。

「んんんんんぉぉぉぉぉっ……そこぉぉぉっ、そこはぁぁぁっ、頼むからそこはぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁっ!!」

 そして、ついに指先が大吾の尻の奥に到達しようとした寸前、

「……」

 岩田の手がぴたりと止まった。遅れて、大吾の鳴き声……いや、嬌声と身震いも止まる。

 店内に、静けさが戻った。

「……」

「……」

 それまで大の男が激しく身をよじらせていたことを恥じらいもせず、大吾は、どこか陶然とした目つきで立ちすくんでいた。彼の大きな左手は、なぜか股間を隠すように前掛けの上に置かれている。

「い、いや……すまん。俺みてえなおっさんにケツ触られても、うれしくもなんともねえよな」

 神妙な顔で、岩田は手をひっこめた。悪ふざけのつもりが、大吾の極端な反応に逆に気押されてしまった、という表情だ。

「……む」

 しかし、どこか名残惜しそうな表情で口を濁す大吾の口から、同意する言葉は出なかった。

「よ、用がねえんなら帰るぞっ」

 代わりにどこか焦ったような声を出した大吾は、そそくさと岩田に背を向け、玄関の戸に手を掛けようとした。

「ちょいと待ちな、大ちゃん」

 背後から、岩田の声がびしりと掛けられる。微妙に巻き舌だ。

 振り向かぬまま、大吾の手が止まる。

「俺ぁ情けねえぜ、大ちゃんよ」

「……」

 無言の大吾に、岩田はさらにどすを利かせた声で畳み掛けた。

「悩みがあるんなら、言ってくれたっていいじゃねえか」

 その言葉で、ついに大吾は振り返った。

 そこには、門限を破った娘を玄関で待つ厳格な父親のような顔で、太い腕を厚い胸板の前でがっしりと組む岩田の姿があった。作務衣の衿の下からうっすらと生えた胸毛が覗いている。

「俺は大ちゃんにとっての何だ」

「……ぬ」

「単なる焼鳥屋のオヤジか」

「んなことねえって……」

 とは言いつつも、大吾の腰はじりじりと後ろに退けつつある。真剣に話をしている岩田には申し訳ないが、どうやら話が面倒な方向に行っているようだ。

 大吾が高校に在学していた時から、岩田との付き合いは始まっている。そのころの大吾は、恵まれた体格を武器に、自校や他校の学生とよくトラブルを起こす男だった。その都度、大吾は高校を「自主休校」し、学ラン姿で当てもなく街をうろつき回った末、開店前のこの店によく顔を出していた。

 学校や親の無理解をぼやく大吾の話を岩田は否定も肯定もせずに、まな板の上で鶏肉をさばき、仕込みを続ける。そして、大吾の話が終わってから、「大ちゃん、それはおめえが間違ってる」、あるいは「おめえが正しい」とぽつりと一言だけ言った。

 感情を抑えている分、逆に迫力を生む口調に、さしもの大吾も黙り込むしかなかった。

 現在でも、二人のその関係性、あるいは力関係が変わることはない。

「親父代わり、と呼ぶには僭越かもしれねえ。だが、俺は大ちゃんのことを本物の息子みてえに思ってる。もし俺がおめえさんの事情に首突っ込むのが嫌なら嫌と正直に言ってくれ」

 ぐっと眉をひそめ、そこいらの極道ですら内心畏怖するであろう殺気めいた表情を浮かべた岩田が、ざりり、ざりりとサンダルの底を床になすり付けるように大吾に歩み寄ってきた。

「いや……」

 ギロリと細く鋭い目を向けられた大吾のひげ面に、一筋の汗が流れる。

 大吾の突出した喉仏が、ごくり、と音を立てて上下した。

 そのまま数十秒、にらみ合いが続いただろうか。

 場の緊迫が、最高潮に達したその瞬間。

 大吾はおもむろに大きな鼻の穴をさらに大きく広げ、すうぅぅぅぅぅ、と深く息を吸った。

「む?」

 岩田が太い猪首を傾げた、それと同時に、



 せーいぎーにつどーう わこぉぉぉどよぉぉぉぉ



 突如、大吾は、軍歌調の歌を調子の外れた大音声でがなり立てた。

「……な……っ??」

 虚を突かれた岩田を尻目に、大吾は右手の拳を高々と振り上げ、リズムに合わせ力強くぶんぶんと振り下ろしながら、左手で玄関の引き戸を開けると、ずかずかと外へと出て行った。

「おっ……おい大ちゃん! ダイ……」

 だが、大吾は声高らかに歌い上げながら、脇目も振らず、看板の明かりが付き始めた薄暗い飲み屋小路を大股で進む。

 そして、「寄り道横丁」から一歩、足を踏み出した瞬間。

「……ぐ、ぉぉぉぉぉっ!!」

 アスファルトを力強く蹴りつけて、ネオンと人々が活気を帯び始めた道を、大吾は猛然と走り出した。

 行き交う通行人も客引きも、全速力で突進してくる巨体の酒屋に、飛び退くようにして道を譲った。大柄な体躯の割に、大吾は意外なほど足が速い。

 配達用のライトバンを置いてある近隣のパーキングに向かって、ひたすら大吾は走る。

「っ、はぁ……はぁ……」

 風俗街を全力で走り抜け、ついにスタミナの切れた大吾は、人通りの少ない薄暗い路地裏で立ち止まり、両手を膝の上に置いて、しばらく息を整えた。

 汗で全身をびっしょりと濡らした大吾の体に、冷えた秋の夜風がすう、と吹きつける。

「お……台車……」

 今さらそれを取りに戻るのも、なんとも格好が悪い。

「……仕方ねえ、明日取りに行くか」

 大吾は、短く刈り込んだ後頭部を右手でざりざりと掻いてから、

「に、しても……」

 太い首を右、左と回して、近くに誰もいないのを確認し、大きく張り出した自分の尻をデニムの上からそっと撫でてみた。

「う、ぉぉ……っ……」

 それだけで、危うくまた嬌声を上げそうになり、大吾はあわてて手を離す。

 まだ、体の芯がうずいていた。

 一本一本がごつごつとした手の指を見つめながら、大吾は脳裏に浮かぶ岩田の残影を思い返してみる。

 初対面の人間なら、思わず二、三歩後ずさりそうな鋭い眼光。さらに、どこか酷薄な印象を与える薄い唇に、青々とした髭剃り跡。

 接客業としては多少ならずともハンデはあるが、代わりに一本筋の通った、ストイックな男の色気はある。

「……ぉ、っ」

 気が付くと、男である由縁の場所、すなわち大吾の股間のものが、熱を帯び始めていた。

「ぉぉ……ぉぉぉ、っ」

 抑えようとすればするほど、そこは硬度を増していく。

 膨らみ掛けたジーンズの前を両手で抑えるだけで、全身をまた甘やかな官能が走った。

「……んん」

 巨大な愚息が布地の下でびくびくと動く。その脈動を感じながら、大吾は背を丸め、大きく息をついた。

 路地裏を抜けた先にある高架下を見つめながら、辺りに人がいるかどうか確認することもなく大吾はぽつりと漏らす。

「今日もまたせんずるっきゃねえか……」

 安岡大吾、三十一歳。いまだ独身である。堅物というわけではなく、人並み以上の欲望も持ち合わせている。

 ただし、その対象は女ではない。

「……どうしとるんだあ、田上ちゃん」

 道路の真ん中で苦悶の表情を浮かべた大吾は、

「ぐぬぬぬぬ……」

 獣のように低く唸りながら、両手で股間を押さえ続けていた。



 ――それから一週間後、十一月六日・午後九時二十三分。

 本我生から都心方面に向かって一駅先の阪条さかじょう駅もまた、大型スーパーと大手百貨店が隣接する大規模な駅であった。

 駅前のスーパーと百貨店は閉店時間を迎え、人通りはある程度落ち着いてきたものの、サラリーマン、学生たち、カップル、OLたちなど家路を急ぐ者、あるいはこれから町に繰り出そうとする者、それぞれ行き交う人は絶えることがない。

 その中に、駅構内のコンビニの前で一人立つ、見た目二十代後半ほどの背広姿の青年がいた。

 人待ち顔で軽く目を伏せていた彼は、右手で口を軽く押さえ、その下で小さくあくびをかみ殺す。彼の色白の肌は、うっすらと桜色に染まっていた。

「ふ、ぁ……」

 青年はけっして目立つ場所にいるわけでも、目立つ格好をしているわけでもない。しかし、彼の前を通り過ぎる人々の――特に女性の多くが、一瞬目を見開いて、さりげなく彼の顔を盗み見していった。その反応は、一般人が有名人に出くわした時のそれによく似ていた。

 彼が身にまとっているのは、平凡な紺のビジネススーツで、右手に下げているのは一目で量販店製とわかる黒のビジネスバッグだ。すなわち、その服装自体には、あえて特筆するような事柄はない。体型も、一七五センチ前後の身長に対し、六十五キロ程度と、中肉中背の部類に属する。

 ただ、その白くきめの細かい肌、濃い睫毛まつげに縁取られた澄んだ黒目がちの瞳、さらには、くっきりとした眉と、やや小さめな鼻が、類稀たぐいまれなる彼の美麗な印象を決定づけていた。ドラマの撮影か何かで、人気俳優がそこに立っているかのような印象を群衆に与えたのかもしれない。

 彼の名は、田上勇一たがみゆういち。一流と呼ばれる東京の私立大学を卒業した後、出身地の東北に戻ることなく東京に残り、本我生町に本社ビルを置く「クラウン証券」に勤続して六年が経つ、二十八歳のサラリーマンである。

 強いて見た目において彼の欠点を探すとすれば、多分に女性的な顔立ちがやや頼りなくも見えることぐらいか。とは言え現代では、それさえも充分にアピールポイントに成りうるだろう。

 そこへ、多少ろれつが回らない、背広姿の背の低い太った男がコンビニの中からぬっと現れた。

「お待たせお待たせぇ〜」

「うわ……っ!」

 それまでぼんやりとしていた勇一は、思わず驚きの声を上げてしまった。しかし、酒のにおいをぷんぷんとさせたその太った男は、気にする様子もなく、にんまりと邪気のない笑顔を見せた。

「へっへぇ」

 やや充血した、愛嬌のある丸い目に見つめられた勇一の顔が、火がついたように赤くなる。

 つきたての桜もちのようなピンク色に染まった丸顔にどんぐりまなこ、白玉だんごのような丸っこい鼻、顔の下半分を覆い尽くすかしわ餅のように大きな口。さらに丈が短めのグレイの背広の下から覗いている、ワイシャツに包まれたぼってりとした腹。肌の色と世代だけは勇一と共通しているが、その風貌はだいぶ違う。

 太った男が手にしているコンビニの袋からは、少年マンガ誌とペットボトルのコーヒー、スナック菓子のパッケージが透けて見えた。

「ほら、お土産っ」

 にっ、と白い歯を見せた男は、勇一にその袋をずいと差し出す。その満面の笑顔はまさに「えびす顔」であった。

 ちなみに、ふだん勇一はマンガを読まないし、スナック菓子を口にすることもなく、さらにはコーヒーも苦手だ。どうやら彼は、自分の好物を中心に詰め込んだらしい。苦笑を浮かべつつも、勇一は、ありがとう、と言って、男から袋を受け取ると、バッグを持った右手にまとめてそれを吊るした。

「その代わり、今日のことは……な」

 一転、男はそれまでの軽薄な表情から、わずかに勇一の顔色を窺うように神妙なそれとなり、擦り合わせた右手の親指と人差し指を、厚い唇の前で、すっと左から右に動かす。おそらくそれは、「他言無用」のジェスチャーなのだろうか。

「……」

「どしたの、俺の顔、そんなにイケてる?」

「……あ、っ」

 勇一は、我知らずじっと見つめていた男の顔から視線を外した。まだ顔が熱い。

「……ごめん」

 この場合、「ごめん」という言葉は、「普通の人間」に対してふさわしいものだろうか。勇一の脳裏で、とっさに整合性のチェックが行われる。おそらく、自分は死ぬまでこの面倒な作業から解放されることはないのだろう。

「……」

 勇一は、男の耳に入らないよう、小さく息をついた。

 勇一の前にいるこの太った男は、勇一と同期社員の川名耕作かわなこうさくである。六年前、ともにクラウン証券に入社後、勇一は営業部に、川名は企業情報収集を主業務とするファイナンス・ディーリング部に配属された。同期の飲み会などで互いに顔は見知ってはいたが、早朝出勤と残業が当り前の営業部の勇一が他部署の人間と交流する時間はなかなか作れなかった。

 だが、半年前、勇一が川名の部署に異動となり、机が隣同士ということと、課長を除けば、部内では二人だけの男性ということも手伝って、すぐに彼らは親しくなった。ただ、終業後にまで付き合うようになったのは、ここ最近のことである。

「んじゃ、行きますかぁ」

 酔っぱらい特有の歌うような節回しで、川名は改札口に向かってはずむまりのように、どたんどたんと重い体でスキップを始めた。

「田上ーっ、早く早く」

「あ、うん……」

 ただでさえコミカルな風貌の川名の子供じみた行動に、すれ違う人たちは苦笑を浮かべた。

「ゆるキャラ」のように左右に重心を揺らしながら歩く、ふくよかな川名の背中を早足で追いつつ、勇一は構内の時計に目をやった。

 時刻は、午後九時三十一分。

 二か月前まで、安岡大吾と「てっちゃん」で酒を飲んでいたころならば、とうにお開きにしていた時刻である。



 この日、午後七時半に会社を出た勇一と川名は、本我生駅から、都心方面行きの列車に乗った。

 体型通りの大食漢である川名に合わせ、いつもならば勇一と川名は、終業後に本我生駅西口付近のチェーン居酒屋に立ち寄ることが多いのだが、今日は社員用の通用口を出たところで、川名から一つの提案があった。

「今日はさー、飲む前にまずサッパリしねえ?」

「サッパリ、って?」

「お・風・呂」

 声をひそめて、川名は意味ありげに笑った。

「……えっ?!」

(お風呂……って、まさか)

 じっとりと汗を浮かべて狼狽する勇一の様子を、川名はどこか面白がるように悪戯っぽく眺めている。

「あ、もしかしてお姉ちゃんがいるほうの風呂、想像した?」

「あのっ、それは、その……」

「俺も“そっちの風呂”に行きてえのはやまやまだけど、今日はこっちで我慢してくれよ……な」

 と、背広の懐に手を突っ込み、「ジャーン」というセルフ効果音とともに取り出したその手には、スーパー銭湯のチラシが握られていた。

「ほら、先月隣の駅前にできたスパ銭って、オープン記念で居酒屋メニューが全品半額、酒も飲み放題なんだってさー」

(あ、お風呂じゃなくてそっちがメインなんだ)

 いかにも川名らしいオチに、つい勇一の顔もほころぶ。

「タオルとかは向こうで買うってことでいいよな」

 いつものことだが、勇一が了承した前提で話が進んでいる。

 もちろん、「友人として」、勇一がそれを拒否する理由はない、はずだ。

「あ……うん」

 内心の高揚感をなるべく表に出さないように、一拍置いてからうなずいた。

(川名君と……お風呂、か)

 ――いつものように、「正常な男」としての対応を心掛けつつ。

 都心方面へと向かう列車の中で、川名は二つの吊り輪に両手でぶら下がりながら、揺れに合わせて、横幅の広い体をぐりんぐりんと左右に揺らしていた。

「今日はメシと風呂代、ぜーんぶ俺のおごりな。日頃田上クンにご迷惑をお掛けしてるお詫びに」

 川名は片目をつぶり、拝むようにして勇一を見た。その言葉の通り、いつも仕事で勇一に頼り切っていることを、彼なりに自覚し、気にしているのかもしれない。

「あ……うん」

 勇一は物欲しげな態度にならないよう、わざと川名から視線を外し、気のない返事を返す。

(気にすることないよ、僕も川名君と一緒にいられて楽しいし)

 そんな本音を口にしたら、はたして川名はどんな反応をするだろうか。

「あと……ちょっと訊きてぇこともあるし」

「……僕に?」

 ふと、シリアスな口調で声をひそめた川名に、勇一が振り向くと、川名は一瞬だけ真顔になった。

「……田上も」

「えっ」

「『おねえちゃんのいる風呂』とか、行ったりするわけ?」

「か……川名君っ!!」

 真っ赤になって否定する勇一のリアクションを見て、川名はまたにやにやと笑った。

 目的のスーパー銭湯は、阪条駅から徒歩数分の場所にあった。この手の施設をあまり利用したことのない勇一が、物珍しさで館内をきょろきょろと見回していると、

「田上ーっ、こっちこっち」

 すでに二人分のタオルを両手に持った川名が、有料エリアから手招きをしていた。

「あ……ごめん」

 ポロシャツの制服を着た若い女の店員に軽く会釈をして、彼女が立つフロントの前を通り過ぎる。

「ほい、タオル」

 川名から渡された、ハンドタオルとバスタオルのセットを、「あ、ありがとう」と勇一は恐縮しながら受け取った。

 館内には理髪店・マッサージ屋・ゲームコーナーなどがあり、居酒屋コーナーには、勇一たちと同じく会社帰りのサラリーマン風のグループや、子供連れの若い夫婦たちの姿が目立つ。

 先を進む川名に続き、男湯ののれんをくぐると、とたんにむわりとした湿度の高い空気が肌にまとわりつく。男だけの空間に広がる独特のにおいが勇一の鼻をついた。

 当然のことながら、脱衣所では、裸の男たちが前を隠さずうろうろとしている。

「……っ」

 その必要もないのに勇一はうろたえ、顔をうつむけてしまう。他人の男の裸を生で見るのが、久しぶりだったこともあった。

 二か月ほど前までは、週二回、月曜と木曜に通っていた駅ビルのスポーツクラブの浴場で、それを見る機会もあったが、現在は、すっかり足が遠のいている。

「……」

 その理由を思い出しそうになった勇一は、

(……忘れよう、もう)

 首を横に振り、川名と隣り合わせの木製の衣服ロッカーを開け、脱いだ背広をしまおうとした。

(えっ……)

 その時、勇一の右目の端に、脱衣所の隅を裸で歩く、体毛の濃い巨漢の広い背中が映った。

(……! まさか)

 反射的に勇一は視線をそちらに向けようとした。しかし、

「なーにやってんの、田上」

 同時に背後から川名に声を掛けられ、やむなく振り向くと、

「あ……っ」

 タオルを片手に、生まれたままの姿の川名が、目を丸くして立っていた。

 意外に綺麗な薄紅色の乳首、薄い陰毛の中にやや埋もれ気味の、先端近くまで皮をかぶった肉茎。彼の白くぽっちゃりとした体に一瞬気を取られてから、

「ご、ごめん」

 と、頭を下げ、また振り返った。

 だが、そこには、もうあの巨漢の姿はなかった。

 その後、風呂を上がってからも、脱衣所で見た男の広い背中の残像が、勇一の頭から消え去ることはなかった。

「ぷはーっ、風呂の後の生はやっぱしみるーっ!」

 ずらりと料理が並ぶテーブルを前にして、居酒屋コーナーの座敷にあぐらを掻いた川名は、露が垂れたジョッキに半分残ったビールを一気に飲み干す。風呂から上がって一時間で、机の上にずらりと並んだ料理の五分の四以上が、すでに彼の胃袋に収まっていた。

 メニューが全品半額、しかもアルコール飲み放題ということもあってか、この日は、いつもよりも川名が食事と酒を口に運ぶピッチが速かった。

「でさっ、でさっ、田上みてぇに顔だけ良くて弱っちい奴でも、営業って務まったわけぇ」

 イチゴ大福のように湯上りの顔を真っ赤にした川名が、勇一の前部署について執拗に尋ねてくる。これまでは彼がまったく興味を示さなかった話題への、唐突な執着であった。

「ああ、うん……」

 自分でもそれとわかる生返事を返し、勇一は申し訳程度に中ジョッキに口を付け、またテーブルに戻した。目の前の取り皿もジョッキも、中味はほとんど減っていない。

「……ん」

 体格のいい男が店内を行き来するたびに、勇一はふとその客に顔を向けてしまう。

「聴いてんのっ、田上っ」

「あ……ごめん」

 定まらない視線を川名に見抜かれた恥ずかしさで、顔が熱くなる。

 あの巨漢の背中が、まだ、まぶたの裏に残っていた。

 そして、それは、ある二人の男との出会いを勇一に思い起こさせていた。



 半年前、四月一日の朝。

 勇一はその日から直属の上司となる課長・谷越慎二たにごえしんじと初めて顔を合わせた。

 既婚者である彼の穏やかな人柄と、四十一歳という年齢を感じさせない頑健な若々しさは、勇一の理想像でもあった。そして、勇一の歓迎会の夜、酔った谷越に勇一は冗談半分に肩を抱きすくめられることとなる。

 勇一にとって、それは単なるスキンシップを超えた、特別な期待を抱かせるものだった。しかし、男女の間柄ならいざ知らず、男同士ならば肩を抱こうが尻を叩こうが、世間的には特別な意味を持たない。

 ――片方が同性愛者であることを公言していない限りは。

 思春期を過ぎたあたりからゲイの自覚に目覚めてからも、勇一はこれまで、ゲイバーや、ゲイショップ、男性同性愛者向けの性風俗施設である「ハッテン場」などに行ったことがない。万が一にもそこで知り合いと出くわすかもしれない恐怖が、勇一の足をすくませた。

 そんな勇一の唯一の慰めは、通信販売で購読しているゲイ雑誌やゲイ向けのアダルトDVDを見ることだった。

(こんなの……あるはずないよね)

 同性愛者・異性愛者問わず体格のいい男たちが、欲望のまま濃密に絡み合う――小説や漫画の、そんなお定まりの展開に違和感を覚えつつも、二次元の世界に住む彼らの武骨な顔立ち、力強い筋肉、腹のあたりに程よく蓄えた脂肪はやはり魅力的だった。そんな野性味あふれるヒゲクマ系の男と現実には接したことがないだけに、勇一の憧れは日に日に強くなっていた。

 異動からほどなく、勇一は、本我生駅に隣接した多目的ビルの最上階にある、全国チェーンの「FLGスポーツクラブ」に通い始める。自分が理想とする、がっちりとした体格に少しでも近づきたい、それが建前の理由だったが、本音を言えば、体格のいい男たち――の裸を目にすることへのささやかな期待もあった。

 勇一がスポーツクラブに通い始めてから二か月後。

 梅雨のさなか、珍しく晴れ間が覗いたその日、FLGスポーツクラブに、熊のような大男が新規入会した。

「いやいや、最近のジムはえれぇことになってんなぁ、おい」

 トレーニングルームの隅々まで響き渡るがなり声で、勇一を含めた利用客の視線を一身に集めたその男は、薄汚れた白Tシャツと、色がめきった紺系のトレーニングパンツを身に着けていた。分厚い胸板と長身で毛深い体躯を持つその風貌をたとえるなら、さしずめ田舎の屈強な漁師、といったところだろうか。

 まるでゲイ雑誌のグラビアから抜け出てきたような男臭さを持つその男に、勇一の目は一瞬で奪われた。その時、トレーニング用マシンのトラブルで困っていた巨漢に勇一から声を掛けたのが、彼らの関係の始まりである。

 それから一週間後の、七月に入って初めての月曜日。

 いつものように、夜七時にスポーツクラブに顔を出し、男子更衣室に足を踏み入れた勇一の背中に、

「いよっ、田上ちゃん!」

 と、男の野太い声が掛けられた。

「えっ……」

 戸惑った勇一が振り向くと、そこには、交通整理ロボットのように肘を直角に曲げ、右手を高々と上げた先週の巨漢が、ひげ面をこわばらせ、直立不動で立っていた。

(……田上、『ちゃん』?)

 生まれて初めての呼び方に、勇一は目を丸くしたまま、真っ赤に顔を赤らめた巨漢を見つめた。

 他の男たちの視線が勇一に集まり、奇妙な緊張感が更衣室全体に漂う。

「……」

 五、六秒の沈黙ののち、

「こんばんは」

 勇一は心の底からの笑顔を浮かべて、そうあいさつした。

「……えーと」

 巨漢は、小首を傾げた勇一が自分の名を知らぬことを悟ったのか、うむとうなずき、

「自分はぁ、安岡大吾。年は三十一、職業は酒屋、趣味は酒と、草野球であります!」

 と、おそらく更衣室の外まで響き渡る朗々としただみ声で、一気に言い終えた。

「ど、どうも……。田上、勇一です」

 戸惑いながらの返礼に、破顔一笑、と言わんばかりに、大吾はにっかりとむさ苦しい笑みを浮かべた。

 その日から大吾が積極的に勇一に声を掛けてきたこともあり、いつしか彼らはトレーニング後に毎回「てっちゃん」で酒を飲み交わすまでの親密な仲になる。ただし、この時点ではまだ二人は互いの性癖を知らず、あくまでも「友人」としての付き合いを続けていた。

 ところが、九月に入り、ある出来事が元で、二人は「友人」を越えた関係となり、さらには互いに隠していた共通の「秘密」――ともに同性愛者であることを知ることになる。

 それでも、翌朝まではまだ「友達」の関係が、微妙ながらも続いていた。

 しかし、その直後に――。



 大吾の顔は見る見る勇一の顔に近づき、そして――。

「……!!」

 無言のまま、唇を奪った。




 それから二か月が経った今日、十一月六日。

 午後九時過ぎに阪条町のスーパー銭湯を後にして、帰りの列車に川名と乗り込んでからも、勇一の心の中では大吾との想い出がエンドレスで再生され続けていた。



 ――「いよっ、田上ちゃん!」

 ――「こんなこと頼めるのは田上ちゃんしかいねえんだよ」

 ――「オラ、ちゃんと……腰、振らんかい。我が応援団部の、意地……見せんかい」

 ――「いや、あの……ちょっと忘れ物……な」




 いつも笑顔で勇一に話し掛けてきてくれた大吾。人情家で、少々おっちょこちょいで、子供がそのまま大人になったような純朴さを持つ男。

 彼との楽しかった記憶の断片が、胸を締め付けるような痛みとともによみがえる。

「……っ」

 体が熱くなる。「あの日」からずっと心の奥に押し殺していたはずの気持ちがあふれ出す。

『次は本我生、本我生……』

 車内アナウンスが流れたと同時に、勇一の唇は無意識のうちに動いていた。

「僕が……」

「ん?」

 知らぬうちに体が前にのめり、床からかかとがわずかに浮いていた。そんな勇一を見て、隣で酔って座席にべったりと背中をもたれ掛けさせていた川名の太い首が傾く。

「……どしたの?」

 列車は徐々にスピードを落とし、本我生駅のホームで停まった。ドアが開き、五、六人の乗客たちがホームへと降りていく。

 このままでいいのか。本当に、大吾とはこのまま「何もなかった」ことにしてしまっていいのか。

(僕が、本当に、好きなのは……)

 胸の奥から溢れ出る葛藤が、小さく勇一の体を震わせていた。

 駅の発車メロディーが鳴り始めた数秒後、

「ごめん、ちょっと……」

 ついに、勇一は立ち上がると、ドアに向かって駆け出した。

「あれぇ? ちょ、田上ぃーっ!」

 勇一がホームに飛び降りた直後、プシュウ、と空気音がして、背中で聴いた川名の声が遮られた。隣の車両から降りてきたらしい背広姿の中年男が、ホームの通り道で列車に背を向けて立ちすくむ勇一を、疲れた顔に不可思議な表情を浮かべつつ追い越していく。振り向くことも立ち去ることもできず、勇一の足はそこから動かなかった。

 次の駅へと出発した列車から吹き付ける風が、勇一のさらりとした髪をなびかせる。

 そして、列車から降りた客の姿が、ホームから途絶えてもなお、勇一はその場から動けなかった。

「うわ……」

 恥ずかしさのあまり、勇一は左手を汗ばんだ額に置いた。もう少し若かったら、そのままへなへなと地面にくず折れていたかもしれない。

 石橋を叩いても渡らない自分のキャラクターに似つかわしくない、あまりに突発的な行動だった。

「……あ」

 ふと右手を見ると、ビジネスバッグは提げているものの、さっき川名からもらったコンビニの袋がない。

「えー……とぉ」

 やはり川名に謝罪のメールぐらいは送っておいたほうがいいだろうか。勇一は階段の裏の、人気ひとけのないスペースに移動すると、バッグのチャックを開け、中からスマートフォンを取り出した。

「……ん?」



 不在着信通知

 発信元:FLGスポーツクラブ

 11月6日 20:27




 画面に表示されていたそれは、大吾との初めての出会いの場所でもあるスポーツクラブの名前だった。留守番メッセージは残されていない。

(なんだろう……)

 スマートフォンの時計は、午後九時五十三分を指している。クラブの閉館時刻まであと七分だ。

 クラブの電話番号を呼び出し、一瞬ためらった後、

「……えいっ」

 小さく声に出して、通話ボタンを押した。

 三回、四回、呼出音は鳴り続けるが、応答はない。

「……っ」

 込み上げるプレッシャーに耐え切れず、五回目のコールで指が停止ボタンを押し掛けた時、相手が電話に出た。

『お待たせいたしましたっ、FLGスポーツクラブです!』

 青年の張りのある声が耳を突く。

 二か月ぶりのインストラクターとの会話に、勇一は一瞬言うべき言葉を忘れ、戸惑う。

『……もしもし?』

 いぶかしげな相手に、勇一はあわてて「あ、あの……」と声を出した。

『あっ、田上さん! どうも、森田ですっ』

 一言しか口に出していないのに、もう彼には勇一の声がわかったようだ。

「あ……どうも」

 自分から名乗る予定だったのが、出鼻をくじかれ、勇一は口ごもってしまう。

「先ほど、お電話いただいたようで……」

『あ、わざわざ申し訳ありません。それで、あの……』

「……」

 森田の次の言葉を待つ数秒の間、勇一の心臓の音が耳触りなほど高鳴っていた。

『九月から継続している休会手続きのほうは、まだそのままにしておいてもよろしいでしょうか』

「ああ……」

 瞬時に落胆を感じ、つい溜息のような声が勇一の口から漏れる。



『最近田上さんがどうなさっているのか、安岡さん、すごく気になさってて……』



 一瞬でもそんなセリフを期待した自分の愚かさが嫌になった。

「……はい、そのままでお願いします」

 わずかに気まずい沈黙が流れた。

(今でも安岡さんはそちらにいらしているんでしょうか)

 最も気になっているそのことを口に出すことはできなかった。

「そ、それじゃどうも……」

 と、それ以上会話を続けられずに勇一がそそくさと話を終えようとすると、

『あ、あの……』

 森田が言いにくそうに、くぐもった声を上げた。

「は、はい」

『安岡さんのことなんですけど……』


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